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まちブログ
長崎からエールを

視点はこども、支えるおとな vol.1┃こども支援「クラムボン」吉岡詩織さん

私たちが住む長崎県は、美しい自然に恵まれ、歴史と文化に育まれた県として、また、被爆地を有する県として、平和の大切さを何よりも重く受け止め、その実現に寄与する役割を担っている。

平和の実現のためには、単に争いをなくすというばかりでなく、誰もが基本的人権を有する個人として尊重され、共に生きていくことのできる社会を作り上げていく必要がある。

しかしながら、現状は、社会的に弱い立場にある障害のある人が、依然として、物理的な障壁、偏見や誤解といった意識上の障壁など、様々な社会的障壁による制約を受け、その自立と社会参加を十分に果たせていない。

引用元:障害のある人もない人も共に生きる平和な長崎県づくり条例

これは、2013年5月22日に長崎県議会で可決された「障害のある人もない人も共に生きる平和な長崎県づくり条例」の前文です。

この条例が施工された2014年から7年の月日が流れていることには目をつむってほしいけれども、当時から長崎県が課題として取り上げている「障がい者の自立と社会参加」についての取り組みは様々。

その中でも、今回は児童発達支援・放課後等デイサービスに着目して取材に行ってきました。

ご協力いただいたのは、長崎市西海町にある「こども支援『クラムボン』」の管理者・吉岡詩織さん。

(取材にご協力いただいた吉岡詩織さん)

前後編に渡って紹介する今回のインタビュー。前編では、私立高校教員や青年海外協力隊を経て”障がい児教育”に関わったきっかけや、クラムボン開設に至るまで。そして後編では、放課後等デイサービスでの試行錯誤や子どもたちの変化、吉岡さん自身が大切にしている想いを深掘りしていきます。


特別支援に興味があって転職

実は、吉岡さんは僕が高校生の頃に国語を教えてくれていた先生でした。瓊浦高校でのご縁が、こんな形で繋がるとは思いもしませんでした。

― 10年ぶりですね、お久しぶりです!

吉岡:元気にしてた?ライターやってるなんて、私が国語の先生で良かったのかな?って思っちゃうよ(笑)。

― やんちゃなクラスでしたけど、僕は吉岡先生の授業を楽しく受けてました!今回取材をお願いしたのは、Facebookで「施設を開きました」という投稿を見かけたのがきっかけで…。

吉岡:興味を持ってくれてうれしい!今日はよろしくお願いします。

― 早速なんですが、瓊浦高校を退職されてからは何をされていたんですか?

吉岡:特別支援に興味があって、鶴南特別支援学校の五島分校に転職を。「五島に人が足りてなくて」って話だったんだけど、実家を出てみたいって気持ちもあったから思い切って要請を受け入れたんです。

五島分校に配属後、高校生の段階にいる子どもたちのサポートを行ったという吉岡さん。「障がい児教育について知りたい」という一心で飛び込んだ職場で、3年を過ごした。


鶴南特別支援学校・五島分校について調べてみました

学校の名前は聞いたことがありましたが、実際に特別支援学校がどういったところなのか?というところが気になり、長崎県が運営する学校ホームページを拝見しました。

僕が通っていた小中学校でも特別支援学級はありましたが、ちがいを感じた部分をいくつかピックアップします。

①生徒会活動を積極的に行っていること

②小・中・高のステップでキャリア教育が行われていること

生徒会活動については学級単位なのか学校単位なのかで異なる部分があるのでしょうが、キャリア教育においては大きなちがいがある印象を受けました。

僕が経験してきた職場体験は、長くても1週間程度。それに、「小中高の各1学年しか対象にならない」というイメージが強かったのですが、鶴南特別支援学校の高等部は、各学年でそれぞれ実習に取り組み、各自が目標設定も行っているそうです。

社会人になるまでの間に現場を体感できるというのは、特別支援学校であるかどうかに関わらず大切な機会であるように思います。

五島での日々も財産に(提供:吉岡詩織さん)

JICA応募のきっかけは、教採不合格

3年目を迎えた頃、改めて教員採用試験を受けた吉岡さん。そこで待っていたのは、「障がい児教育の経験を生かした教員の道」ではなかったという。

吉岡:教採に3回落ちちゃって。どうしようかなって思ってるときに、JICA海外協力隊のポスターが目に入った。高校生くらいのときから興味はあったんだけど、それを仕事にするとか、行動に移すまでには至らなくて。それでも、頭の片隅にはずっと残ってたんだよね。

当時のJICAの募集要項は、特別支援学校での実務経験が2年以上。ぴったりと当てはまった吉岡さんは、「応募できるじゃん!」という勢いから応募。その後、事前研修を受けた後にスリランカへと派遣された。

― スリランカでは、どういった活動を?

吉岡:特別支援学級のある学校を訪問して数字カードや絵カードといった教材の提案をしたり、先生が足りないところでは子どもたちと遊んだり。正直、先生たちのやる気がない学校もあったりしたんだけど、取り組みに対するフィードバックをすると喜んでもらえたりもする。教える側のモチベーションもすごく大切だなって思うところも多かったかな。

― 公用語は英語じゃないですよね。コミュニケーションで難しいところもあったりしたのでは…?

吉岡:8割はシンハラ語、残りの2割はタミル語を話すんだけど、私が行った地域はタミル人がいるところ。でも、事前研修ではシンハラ語を話せる先生しかいなくて、英語を介して現地で勉強したの。大家さんのところが英語を話せる家庭で本当に良かった!(笑)

自転車に乗って、計7校を駆けまわること2年。帰国が近付く吉岡さんの中で、「教員とはちがう立場で、障がい児の教育に携わりたい」という想いが強くなっていったという。その後、JICAの繋がりで友人になった社会福祉士に相談し、自身が持っている資格や経験を生かせるのは放課後等デイサービスしかないと考えるようになった。

帰国後、心配をかけた家族への感謝を胸に実家へと戻った吉岡さんは、実家から通える放課後等デイサービスへと活躍の場を移した。

言葉や文化は違えど、子どもたちのかわいさは同じ。(提供:吉岡詩織さん)

母が背中を押し、父との二人三脚へ

「母は、きっと教員の道へ戻ってほしかったと思う」と話す吉岡さん。放課後等デイサービスで働く吉岡さんの姿を見て、その気持ちに変化が生じたという。そして、放課後等デイサービスで2年の歳月が経とうとしていた頃、その母から提案を受けた。

吉岡:母がある日、「お父さんと一緒に、琴海に施設をつくったらどう?」って言ってくれたの。私自身、自分で施設を開くって想像をしてなかったから驚いたけど、住宅地が少しずつ増えてるとか、西海町には放課後等デイサービスがないとか、何となくの根拠もあったから検討してみることになって。

― お父さんも、同じような職種の経験があったんですか?

吉岡:全然!クラムボンと関係があるのは、生まれてからずっと琴海にいることくらいかな(笑)。ただ、定年後に「何かしないと」って気持ちはあったみたい。開設には児童発達管理責任者の資格を持ってる人がいないといけないんだけど、私がその資格を持ってたのね。それから物件はどうする、融資はどうするって話を少しずつ進めて…。

しきりに「最初はそんなつもりじゃなかったけど」と口にしていた吉岡さん。上手く流れに身を任せながらも、確実に自らの経験を次に繋げている印象を強く感じました。

定年退職していた父との二人三脚やいかに。

後編では、2021年に開設した「クラムボン」での活動をピックアップ。子どもたちと接する中で吉岡さん自身が大切にしている想いや、子どもたち自身の変化などについて紹介していきます。

(後編もお楽しみに!)

ライター紹介

視点はこども、支えるおとな vol.1┃こども支援「クラムボン」吉岡詩織さん

ショートショート長崎/ながさき若者会議

長野 大生

長崎市出身のライター・編集者。2021年からは、長崎を舞台にした短編小説集を制作するプロジェクト「ショートショート長崎」の代表として、ショートショートの普及活動も行っています。